あれから3年経ちました。きょうばかりは、さすがに東京方面のマスメディアでも話題にしているようですね。「もう3年…」と。でも、少し違うんです。当事者たちにとっては「まだ3年」なのです。まだ3年しか経っていないのに中央の行政は、被災者を忘れ、置き去りにしているのです。金融破綻の民間企業に財政援助はできても、一地方の震災被災者は置き去り、公的支援法案は先送りのまま宙に浮いています。そして1月17日だけ話題にするのです。「もう3年たった…」と。
私の親類や友人にも住居が全壊または半壊した人たちがたくさんいて、みんながみんな原状回復したわけではありません。職場には、いまだに仮設から通勤している人もいるし、何時間も生き埋めになっていた後遺症で冬の寒さに体のあちこちが痛むという人もいます。まだまだ、「終わって」いないし、引きずっている人はたくさんいます。私の家は、建物も家族も無事だったので、被害者ではあっても被災者ではありませんが、それでも、ここ数日間、家族が旅行中で何年ぶりかで何日も独りですごしてみると、あの時の恐怖をふだん忘れているようでやっぱり忘れてはいないんだということがよくわかりました。物音ひとつしない静寂のなかに独りでいると、今、この瞬間にまたあの地震が起こったらどうしよう…と怖くなったのです。東京時代、あれだけ地震の頻発する所に一人暮らしをしていても全く平気だったのに……今は怖いんです。独りだからしっかり戸締まりをしなくちゃ…と思いながらも、ドアチェーンまでしていたら、いざという時、救出してもらえないかしら…なんて、そんなことまで考えてしまいました。あの、死ぬかもしれないと一瞬本気で覚悟したあの時、倒れた家具でドアがあかなくなって暗闇のなかで部屋に閉じ込められたあの時、高台の我が家から街のあちこちに火の手があがるのが見えたあの時、いつでも逃げられるようにと洋服のままリビングのソファで寝た1週間、壁がくずれおちた会社で人事担当者として必死で社員の安否確認を試みるものの連絡のとれなかった不安と焦燥……やっぱり忘れているようで本当は忘れていないんです。(ちなみに、高速道路が倒れたのは、私の家から1km余りのところです。)
だから、私でさえこうなのだから、本当に過酷な目に遭った方々のことを思うと、私自身が忘れかけていたことをいろいろ省みます。奥尻島のことも、雲仙普賢岳のことも、地下鉄サリン事件のことも、年間1万人が死ぬという交通事故のことも、世間に追悼してもらえないような“名もなき事故”の犠牲者のことも、いかに自分が忘れかけ思いやりをなくしていたかと反省しています。そう、被災地のなかにあってさえも、復興した人(企業)と取り残された人(企業)との「温度差」が開いていく一方なのです。きれいに化粧直しをしてめざましく復興していく街、その一方で時に報じられる仮設住宅の孤独な自殺者のニュース。神戸の街を歩きながら「わあ、すっかりきれいになったわねぇ」と感心する観光客たちには、3年経った今も復興の目途さえ立たない人(企業)たちの姿が見えていないのです。ぴかぴかの新築ビルの谷間にぽつんと取り残された空き地の意味を考えることもなく通り過ぎて行くだけなのです。
ある人たちは神戸の声が中央の行政に届かない苛立ちと闘っています。ある人たちはもう忘れようとして何も語りません。ある人たちは今もボランティアを続けています。あれから3年。まだ3年。やっと3年……です。

(以上、震災3年目の日に被災地外へ向かってのメッセージでした)

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