あれから5年が経ちました。今年は、こんな私のHPのような私的でささやかな
場では、もう震災関連ページを掲載する必要もないかもしれない…と去年は思
っていたのに、今、5年目のその日を迎えて、やっぱり必要だと痛感しています。
昨年、私は上京する機会があり、東京の友人たちといろいろ積もる話をする機
会がありましたが、やはり、(予想はしていたものの)阪神淡路大震災に対する
関心・意識の違いと復興に関する現状認識の欠如に内心ショックを受けたもの
でした。(ま、“被災地の住民”とはいえ、家も家族も失わずにすんだ私という友
人が目の前で元気に笑って楽しげに日常の会話をしていたら無理もないことか もしれませんが…)
地元の新聞には年間を通して「震災」という単語が載らない日はないのではな
いかと思われるほどにまだまだ(子供たちの精神的なものも含めて)復興の途
上にある被災地ですが、中央のマスメディアがとりあげるのは1月17日前後
のことだけなのでしょうか。あれほどの大災害がなんでこんなに簡単に風化し
てしまうのでしょうか。Y2K問題で、数日分の水や食料や現金(停電したらテ
レカは使えなくなるからコインがいるんですよね!)や医薬品や電池の準備を …
と世間は騒いでいましたが、水も電気もガスも無い生活を体験した被災地
にとってそんな常識的な非常用装備も、Y2K、Y2Kと騒いであわてて買い揃
えるものなのでしょうか。いったい、あの大災害の教訓は日常生活のなかに 生かされていなかったのでしょうか。
私の周囲には、この震災の体験で価値観や人生観まで変わったという人も多
くいます。私も、ほんのささやかなことかもしれませんが、たとえば、街で困っ
ている人や障害者の方を見かけた時、気軽に声をかけられるようになったと思
います。人の痛みに敏感でありたいと思うようになりました。いつも通る駅まで
の道を塞いで倒れてきた建物や、崩れ落ちた駅のホームや、コンクリートの固
まりが落下していた(当時常勤で勤めていた)会社の入口のエレベーターホー ルや…
もしあの地震が違う時間に起きていたら私も死んでいたかもしれない …
と思える光景を目にして、自分が無事だったのは“運が良かっただけ”なの
だと思うようにもなりました。(だから“被災者”は他人事ではないのです。)また、
あちこちにあがる火の手を見ながら、ひっきりなしに鳴り響く消防車のサイレン
やヘリコプターの爆音を聞きながら、無残に崩れ落ちた建物を見ながら、年配
の方がぽつりと「まるで戦時中だね」とおっしゃったのを聞いて、これが、もし自
然災害でなく戦禍による光景だったらどんな気がするだろう… と考えてしまい
ました。変なきっかけと言えるかもしれませんが、この震災をまのあたりにして、
人が人の住む街を爆撃する戦争などという愚かな行為を、きれいごとではなく
本当に心底懼れるようにもなりました。20年もトレードマークのように続けてい
たロングヘアーを、シャンプーする水が無いために自分でハサミをもってバッサ
リ切ったあの日、私は、心の贅肉も多少は切り落とせたのかもしれません……
震災から1824日目の今年1月14日、仮設住宅の最後のひとりが出て移転し
て、仮設の入居者はゼロになりました。しかし、それは、もちろん「終わり」を意
味してなどいません。仮設住宅に代わる災害復興公営住宅に移った被災者の
支援や地域経済の復興など、課題はまだまだ消えていません。そして、いまだ
に電気を消しては眠れないという子供やトイレのドアを閉めるのが恐いという子 供もいるという、心のケアの問題も。
あれから5年。
トルコ大地震、台湾大地震、東ティモール、コソボ、台風、水害、日常の交通事
故、幼児虐待、リストラ…… 周囲の様々な出来事に目を向けながら… どうぞ、
この阪神淡路大震災の残したものを、震災を体験しなかったあなたも何かのか たちでプラスに転化して活かしてください。
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