≪Marianのひとりごと≫

2000年

 

(12月31日)

きょうもいつもと変わらぬ太陽が沈み、明日もいつもと変わらぬ太陽が昇り
ます。大自然の摂理のままに… でも、人間の文化には、「カレンダー」とい
うものがあり、「宗教」というものがあり、イエス・キリストが生れてから100
年ごとの節目というものがあります。だから、明日は、“特別の日の出”を迎
える“特別の朝”というわけです。顧みれば、今年のマスコミは、何かにつけ、
「今世紀最後の、今世紀最後の…」を連発していましたね。「今世紀最後の
オリンピック」「今世紀最後の日本シリーズ」「今世紀最後のクリスマス」「今
世紀最後の…」 これには正直ウンザリでした。 私にとっては「今世紀最後
の日本シリーズ」ではなく「今年の日本シリーズ」でした。時の流れを「歴史」
という大きな視点でふり返る時、確かに、ひとつの時代の区切りとして20世
紀があり21世紀があるのだと思いますが、今、まさにその真っただなかを
懸命に生きている私にとっては、今年で何かが終わり来年から新しい何か
が始まるわけではなく、いつもと同じようにやってくる「新しい年」をいつもと
同じように姿勢を正して迎えるだけなのです。私の“時の流れ”のなかには、
私にとって意味のあるその時々の節目(たとえば、学生時代最後の…とか、
30歳代最後の…とか)というものはあっても、2000年12月31日と2001
年1月1日の間に「世紀」という意識の境目も継ぎ目もないのです。あったと
しても、「今世紀最後の日本シリーズ」という発想とは違うんですよね!(とこ
ろで、明日からは「21世紀初の…」が連発されるのでしょうかァ?)

考えてみれば、キリストは多くの日本人にとっては異教の聖人ですが、本当
の宗教を認識しない“にわかクリスチャン”たち(クリスマスバージョンでミー
ハーしていた私もそのひとりですネ!)が、やれクリスマスだ、やれミレニア
ムだと浮かれていても構わないし、キリスト教徒と仏教徒の抗争事件も起こ
らないし、クリスマスリースを撤去したあとにシメ縄を飾り、ツリーを撤去した
あとに門松を立てるのですから、実におおらかというか鈍感というか無節操
というか、日本は不思議な国ではないでしょうか。それはそれで決して悪くな
いのですけど、今年も世界各地で宗教闘争・民族闘争は続き、たくさんの命
が奪われたこともしっかり認識すべきことです。

明日、新世紀の太陽が昇るからといって、全てをリセットして新しくスタートす
る… という単純な意識ではなく、私は、公私ともに忘れてはいけないもの、つ
らかったものも悲しかったものも何もかも全てを心に曳きずったまま世紀越え
をして進んで行きたいと思います。私なりに真摯に。

(10月8日)

シドニーオリンピック(2000年9月15日〜10月1日開催)をテレビで観戦。
世界じゅうのアスリートたち、たくさんの感動をありがとう!

シドニーオリンピック2000★Marianのテレビ観戦ひとりごと
※ 9月22日〜10月7日、イベントページとして掲載していたコンテンツの転載です

(9月5日 某メーリングリストへの投稿を加筆転載)

私は時々「ストレス発散っ!」とばかりにピアノの鍵盤に向かいますが、そうい
う場合によく弾くのがモーツアルトのピアノソナタ第11番イ長調の、まさにスト
レス発散で弾くのにぴったりの(モーツアルトさんが聞いたら怒るだろうなぁ!)
第3楽章の部分です。このイ長調ソナタの第3楽章というのは、いわゆる「トル
コマーチ」としてよく知られている曲です。でも、私の完全になまってしまった
指で弾くにはやたら音(音符)が多いので、なかなか指が楽譜が要求する通り
には動きません(苦笑)。音が多い… といえば、映画「アマデウス」に、モーツ
アルトの演奏(オペラのリハーサル)を聴いたオーストリア皇帝ヨゼフU世が
「音が多すぎる」という感想を述べ、それに対してモーツアルトが「この曲に不
要な音などひとつもない。どの音が余計なのか言ってください」と反駁するシ
ーンがありました。私には、とても印象に残っているシーンでした。「ものごと
が “完全”であるということは、それ以上何もつけたすべきものが無い状態で
はなく、それ以上何も取り除くべきものが無い状態である」と言ったのは、私
の大好きな作家のサンテグジュペリでしたが(確か、「人間の土地」という作
品中の記述だったと思います)、ヨゼフU世には無駄な装飾音だらけに聞こ
えたその華やかなオペラ曲もモーツアルトにとっては何ひとつ無駄のない完
璧な音楽だったのでしょう。ところで、私は日頃、モーツアルトが好き…と言っ
ていますが、モーツアルトの全てが好きなわけではありません。ひとことでモ
ーツアルトと言っても、ピアノソナタとオペラとをいっしょくたにして「モーツアル
トが好き」というほど大雑把ではありません。(オペラは苦手で聴きませんか
ら…) まして、「クラシックが好き」なんて表現(私も実際、便宜的によく言いま
すが)、あまりにも乱暴ですよね。たとえば、17世紀生まれのバッハと19世
紀生まれのチャイコフスキーとでは生まれた年で言っても155年もの時代差
があり、その音楽性の違いは、美空ひばりと宇多田ヒカルの違いどころでは
ないのですから。クラシックは苦手という方、もしそれが単なる“聞かず嫌い”
の先入観の場合は、「クラシック」というひとまとめにした視点を捨てて、もっ
と個々の作品単位にアプローチしてみてください。あなた好みの音楽に出会
えるかもしれませんよ!?ちなみに、モーツアルトは喩えて言えば、18世紀
のヒッピー、今でいうところのロックミュージシャンみたいなもんです。華やか
な宮廷音楽家の地位を本心では好まず、権力者を風刺した作品を書き(「フ
ィガロの結婚」などその典型でしょう!)、自由人として生き、最後は窮乏生
活(しかし、この時期にあの“三大交響曲”も書いている!)の果てに無縁墓
地に埋葬されるような死に方をするのです。

(モーツアルトを語りだすと、つい長くなってしまいます。このへんでやめまし
ょう。この私の長文こそ、“無駄な装飾音”だらけかもしれませんね…)
とにかく、どんなジャンルにしろ音楽って本当に素敵です!

(3月16日)

電話が切れてしまったあとのツー・ツーという音が
ナイフになって心に突き刺さったこと、ありますか?

(2月1日)

彼女は、紙パックのコーヒーを飲みながら菓子パンをパクついていた。年の頃
は20歳前。すごい勢いで食べ終えると、紙パックとビニール袋を片付け、次は
化粧タイム。コンパクトを覗き込みながら器用な手つきでファンデーションをぬ
りたくる。そして、あわただしく続くアイシャドウ・頬紅・口紅… 派手な金髪まじり
の茶髪のわりには、意外にシンプルな化粧。シブヤ系からは程遠いフツーのス
タイルである。化粧を終えるとほっとした表情になって、次は携帯電話。「あ、わ
たしだけどォ、遅くなったわァ。今ねェ、まだ○○駅を過ぎたところォ…」あの独
特の若者イントネーション。
彼女にとっては電車の中も自分の部屋も同じらしい。両隣の席からチラチラ送
られるオジサンやオバサンのヒンシュクのまなざしなど全く意に介していないよ
うだ。(彼女の斜め前に立って見るともなく見ている私も、“良識あるオバサン”
として、この彼女の行動を“無節操”だと感じる…)
しかし、次の駅で荷物をかかえたお年寄りが乗ってきたのを見て真っ先に「どう
ぞォ」と席を立ったのは彼女だった。ビジネススーツ姿がバッチリ決まったエリー
ト風オジサンでもなく、上品なブランドファッションを身に纏った善良なるPTA風
オバサンでもなく、彼女だった。う〜ん、捨てたもんじゃない!

(1月6日)

あなたの欲しがっていたポトスをやめて
紅いシクラメンにした理由(わけ)は……

あの西陽のあたる小さな出窓に
ただ “私”を置いていきたかったから
仄かに漂う残り香のように……

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