≪Marianのひとりごと≫

1998年

 

(9月6日)

つい先日、私のパソコン生活1周年を迎えましたが、きょうは、インターネット開設1周年に当たる日です。去年のきょう、私は、記念すべき電子メール第1信の送信に成功したのでした。ちなみに送信相手は自分自身、無事届くかどうか胸をどきどきさせながらの真夜中のテストメールでした。そして、ちゃんと受信した時の感激!

あれからちょうど1年。そろそろ、私のインターネットへの幻想が打ち砕かれ始める頃になりました。ん? いえいえ、“幻想が打ち砕かれる”と言っても、決して、失望したとか、飽きてきたとか、そういうことではありません。インターネットのあり方や、可能性と不可能性などを自分なりに理解して、自分にとって本当に有益な利用のしかたを考え実践すべき時にきているのを感じているし、そういう方向で自分のインターネット生活をより充実させたい…… ということなのです。

「体験学習」のつもりで始めたこのHPも、開設して半年の間に、技術のみならず多岐にわたってずいぶん「学習」させられました。そして、いちばん嬉しいのは、やはりレスポンスをいただくことでした。こんな細々とやる個人のHPなんか、いったいどれだけの人にアピールできるんだろう? 何を発信したらいいんだろう? …という疑問のなかで、手探りしながら半年間きましたが、イラストや短歌の感想をいただいたり、言いたい放題の私に「同感です」とか「それは違うやろ」とかのレスをいただくと、すごく心強かったです。

私のよく聴くラジオ局のイメージソング(ステーションジングル)のなかに「あなただけに伝えたい…」という歌詞があるのです。私は、これを聴き始めた頃、何十万人が聴くラジオで「あなただけに」という言葉を使うことに違和感を感じたものでした。また、私が頻繁にファックスを書き送っていた同局のお気に入りの番組のパーソナリティさんと個人的にお話をする機会があった時に、その方が「マイクに向かってしゃべっている時、よくファックスくださる方の顔を浮かべながらしゃべっていることがありますよ…」とおっしゃったので、「ファックスも葉書も書かなくても、毎日聴いてる方はたくさんいらっしゃるんだから、そんな多くの“無言のリスナーたち”のことを忘れないで!」なんて生意気なことを申し上げたこともありました。でも、半年間、HPをやってみて(もちろん次元もスケールも、ラジオとは全然違いますが)、黙って毎日見てくださる方も有り難いことなのですが、たった1度見てくださっただけの方であっても「良かった」とか「つまらなかった」とかの一言をいただくほうが、私にとって励みになり、次の更新への具体的なヒントやイメージ構築になるということを身をもって体験しました。当たり前のことですが、「面白い」も「面白くない」も「同感!」も「いや、違う!」も、黙っていては相手に伝わらない…… だから今、私には、そういう“少数の具体的な反応”が、“多数の沈黙”を肩代わりして支えになってくれるとおっしゃりたかった(はずの?)あの時のパーソナリティさんのお気持ちがわかる気がするし、決して何十万人のリスナーをないがしろにしているわけではなく「あなただけに伝えたい…」と語りかけるイメージソングの真意もわかるような気がします。

もちろん、インターネットに対する価値観は人それぞれにずいぶん違う… ということも、多くの方々とのやりとりのなかで感じてきましたが、「インターネットは双方向に機能してこそ、よりいっそう、その真価を発揮するはず…」という、私が、インターネットを始めたばかりの右も左もわからぬ頃に生意気にも吐いた台詞の意味を、今、もう一度自分なりに模索して、決して独り善がりの自己満足に陥らずに、メッセージの発信者としても受信者としても、私の貴重な時間を費やすだけの価値のあるものにしていきたい……と願っています。

私のインターネット開設1周年…… こんなところでしょうか。

(6月15日)

ラジオを聴いていると、世のリスナーさんたちが使う様々なラジオネーム(ニックネーム・ファックスネーム)がけっこう面白いのです。もちろん本名の方も多いですが、見知らぬ方の場合、むしろニックネームのほうが印象に残ることが多いようです。シンプルなものから凝ったものまで本当にいろいろ耳にします。
さて、そんなふうにいろいろとヨソ様のラジオネームを聴いているうちに感じたことがあります。主婦の方々の場合なのですが、「○○の母」とか「○○ちゃんのママ」というのが結構多いのです。でも、私にしてみれば、○○ちゃんと言われても知らんわ!…ってな感じです。「母親」や「妻」として子供や夫を通した相対関係で表現する以前に、何故、まず、独立した一個人としての自己表現をしないのか、私には不思議です。子供を持った人たち同士が、「○○君のおかあさん」としか呼び合わない光景を目にすると、もし私なら容認できるだろうか…と疑問です。でも、こんな疑問を当事者たちに少しでも投げかけるやいなや、「あなたには子供がいないからわからないのよ!」という短絡的な(としか思えない)反応が返ってくるのです。
やっぱり私は、ラジオネームをつけるなら、「じゃがいも」とか「イノシシ」とか「パソコンおばさん」とか、その人の “思い入れ” や “人となり” を思わせるものがいいかな… と思ってるんですけど…… (でも、同じ「○○の… 」という場合でも、たとえば、人気タレントをもちだして、「○○のかくし妻」なんていうのは願望が出ていてほほえましいかな……)

(いろいろ反応を頂いた5月24日のMarian’s Extra Pageより加筆のうえ転載)

(5月24日)

FM専門誌がまたひとつ姿を消した。「FMステーション」が4月20日号で廃刊になったのである。これでFM誌は「FM−FAN」のみとなった。80年代のFM黄金時代(…といっても、現在、FMがすたれたという意味ではない。かつてオーディオブームといわれたあの時代にある意味での “FM黄金時代” が確かにあったはずだ)を知る者としては、あらためて、音楽文化の様変わりを思い知らされるが、専門誌の衰退は、FM放送の内容自体が質的に様変わりしてしまった以上、当然といえば当然であろう。
では、何が番組に質的変化をもたらし、FM誌を衰退させたのか…… 当時(オーディオブーム時代つまりFM誌全盛時代)と現在と決定的に異なる条件とは何なのか… それは、ダブルデッキとFAXの普及であると思う。
まず、ダブルデッキの普及。これによって、エアチェックするリスナーは、番組をまるごとタイマー録音しておけば、あとから必要な曲だけを好きなように自ら編集できるようになった。いちいち演奏曲目の順番や曲ごとの演奏時間を気にしなくてもすむ。しかし、シングルデッキの時代には、あとから編集できないために、事前に詳細な情報が必要であった。そこで、すべての曲名(当然、演奏順も)と演奏時間を掲載したFM誌の番組表が大活躍したのである。お小遣いに限りのある中学・高校時代には、買えるレコード(ん? CDじゃないの?)も限られていたから、私もおおいに利用してエアチェックしまくっていた。特にクラシック曲などの場合は、頻繁にかかるヒット曲と違って、聴きたい曲を逃さないために入念に番組表をチェックしたものだった。クラシック曲は演奏時間も長いので、テープの残量を計算して必要な曲だけを効率よく収録するためにも、ぜひとも事前に情報が必要だったのである。余談ながら言わせてもらうと、こういった “あとから編集できないエアチェック” ゆえに様々なテクニックも身についた。やむを得ずのタイマー録音ではなく、リアルタイムで収録していく時には、DJの余計な “しゃべり” の部分をとって曲だけをいれたいと思う場合、DJの癖をよみながら、ここだと思う絶妙のタイミングでテープをスタートさせるのである。スタートした瞬間「では、どうぞお聴きください」なんて言われようものならばガックリである。テープストップの場合も… クラシック曲で、終わったと思って “しゃべり” のはいる前にストップをかけた… と思いきや、最後の「♪じゃーん」なんてのがはいると泣きたくなってしまう。(ベートーベンなんか要注意!?)また、テープ残量が足りなくて曲の途中できれてしまうことを承知のうえの場合も(もちろん、しっかり時間計算をしている)絶妙のタイミングでフェイドアウトさせていく。(そして、某メーカーのテープは表示時間より実際は少し長いということを発見する)こういった “職人芸(?)” がダブルデッキの普及とともに消えてしまったのだ……(なんてトシヨリっぽく嘆いているわけではない… 私はまだ若いのだ!?)
次に、FAXの普及。FM誌の全盛時代(つまりFAX普及以前の時代)は、一部のヒットチャート的な番組以外は、放送される曲目がすべて事前に決まっていて2週間前に発売される誌面に告知されていたわけである。リスナーの番組参加も「はがき」という手段であった。それが今は、FAX参加が主流になりつつある。なんといってもリアルタイム性の魅力であろう。当然、生放送が好まれる。いまや平日の民放は殆どが生放送である。(NHKのクラシック番組でさえ生放送番組がある!)そして、最新のニュースやトピックスをもちこみ、それにリスナーが即時の反応をして、その場で臨機応変な選曲をすることになる。こういうリアルタイム性の時代にあっては、もう “2週間前に発表する選曲表”なんてものは成り立たなくなって当然であろう。
全盛時より、はるかに発行部数を落としながらも1誌だけ残った「FM−FAN」が、今後、番組情報誌から音楽文化を担う総合音楽雑誌へと質的変化を遂げながら、どこまで生き延びてくれるか気になる私である。

(5月15日)

ゴールデンウィークのさなか、NHKのテレビニュースでアナウンサーが「きょうは五月晴れ(さつきばれ)で…」と言ったのが私の神経にひっかかった。ちまたでは、5月の晴天をさして「五月晴れ(皐月晴れ)」と言う人が時折いるが、ついにNHKのアナウンサーも言うようになったのか…と。
今、私の手元にある旺文社国語辞典によると……「五月晴れ(さつきばれ)」@梅雨のあいまの晴れ間 A(@の誤用から)5月の空の晴れわたること……と掲載されている。岩波新書の広辞苑を確認してみても、「5月の晴天」の意味も併記されている。本来は誤用であるが、誤用転じて現在では立派に “市民権” を得た言葉のようである。それはそれでよい。言葉は生き物であり、時代とともに変化してゆく。現代の私たちの言葉と平安時代や江戸時代の言葉が同じなわけはない。「らぬき言葉」がひと頃しきりに取り沙汰されたが、若い世代には定着しつつある。お嘆きのむきも多いかと思うが、あれはあれで文法的にいうと『受け身』と『可能』が区別できるという利点もある。英語だってデカプリオ君の英語とシェークスピアさんの英語は相当違う。…故に、私としても、言葉の使われ方の変化にムキになって抗う気はない。しかし、困るのは、本来の正しい使い方をして「こいつアホか?」と思われることである。6月の梅雨時の晴れた日に「きょうは五月晴れね」と言って笑い者になってはかなわない。だから使うのをためらってしまう。ためらっていくうちに段々使わなくなってしまう。そうやって、言葉は本来の意味が変わったり、すたれたりしていくのだろう。
日本語の中にすっかりおさまってしまった外来語でも誤用されているものは多い。たとえば、「ダイエットdiet」という言葉。「私の父は高血圧のせいで、今、ダイエット中なの」と言ったら、血圧高くて肥満体で痩せようとしている…と勘違いされるかもしれない。この場合は、血圧を下げるために塩分を抑えた食餌療法をしているという意味なのに。つまり、「ダイエット」とは、美容上の減量目的や医学的治療のために「食餌療法をする」ことを意味するのであり、決して「体重を減らす」ことではない。だから、マスコミが「ダイエット特集」なんて銘打って、エアロビクスやジョギングをとりあげるのを見たことがあるが、誤りも甚だしい。
言葉は世の動きとともに自然に変化する。しかし、“自然に” 変化はするが、“不自然” に変化させる必要はないはずだ。だから、影響力の大きいマスメディアこそ心して正しい言葉の使い方を実践して欲しいと、せつに願う次第である。

(1998年1月17日の雑記より転載)

あれから3年経ちました。きょうばかりは、さすがに東京方面のマスメディアでも話題にしているようですね。「もう3年…」と。でも、少し違うんです。当事者たちにとっては「まだ3年」なのです。まだ3年しか経っていないのに中央の行政は、被災者を忘れ、置き去りにしているのです。金融破綻の民間企業に財政援助はできても、一地方の震災被災者は置き去り、公的支援法案は先送りのまま宙に浮いています。そして1月17日だけ話題にするのです。「もう3年たった…」と。
私の親類や友人にも住居が全壊または半壊した人たちがたくさんいて、みんながみんな原状回復したわけではありません。職場には、いまだに仮設から通勤している人もいるし、何時間も生き埋めになっていた後遺症で冬の寒さに体のあちこちが痛むという人もいます。まだまだ、「終わって」いないし、引きずっている人はたくさんいます。私の家は、建物も家族も無事だったので、被害者ではあっても被災者ではありませんが、それでも、ここ数日間、家族が旅行中で何年ぶりかで何日も独りですごしてみると、あの時の恐怖をふだん忘れているようでやっぱり忘れてはいないんだということがよくわかりました。物音ひとつしない静寂のなかに独りでいると、今、この瞬間にまたあの地震が起こったらどうしよう…と怖くなったのです。東京時代、あれだけ地震の頻発する所に一人暮らしをしていても全く平気だったのに……今は怖いんです。独りだからしっかり戸締まりをしなくちゃ…と思いながらも、ドアチェーンまでしていたら、いざという時、救出してもらえないかしら…なんて、そんなことまで考えてしまいました。あの、死ぬかもしれないと一瞬本気で覚悟したあの時、倒れた家具でドアがあかなくなって暗闇のなかで部屋に閉じ込められたあの時、高台の我が家から街のあちこちに火の手があがるのが見えたあの時、いつでも逃げられるようにと洋服のままリビングのソファで寝た1週間、壁がくずれおちた会社で人事担当者として必死で社員の安否確認を試みるものの連絡のとれなかった不安と焦燥……やっぱり忘れているようで本当は忘れていないんです。(ちなみに、高速道路が倒れたのは、私の家から1km余りのところです。)
だから、私でさえこうなのだから、本当に過酷な目に遭った方々のことを思うと、私自身が忘れかけていたことをいろいろ省みます。奥尻島のことも、雲仙普賢岳のことも、地下鉄サリン事件のことも、年間1万人が死ぬという交通事故のことも、世間に追悼してもらえないような“名もなき事故”の犠牲者のことも、いかに自分が忘れかけ思いやりをなくしていたかと反省しています。そう、被災地のなかにあってさえも、復興した人(企業)と取り残された人(企業)との「温度差」が開いていく一方なのです。きれいに化粧直しをしてめざましく復興していく街、その一方で時に報じられる仮設住宅の孤独な自殺者のニュース。神戸の街を歩きながら「わあ、すっかりきれいになったわねぇ」と感心する観光客たちには、3年経った今も復興の目途さえ立たない人(企業)たちの姿が見えていないのです。ぴかぴかの新築ビルの谷間にぽつんと取り残された空き地の意味を考えることもなく通り過ぎて行くだけなのです。
ある人たちは神戸の声が中央の行政に届かない苛立ちと闘っています。ある人たちはもう忘れようとして何も語りません。ある人たちは今もボランティアを続けています。あれから3年。まだ3年。やっと3年……です。

(以上、震災3年目の日に被災地外へ向かってのメッセージでした)

(1997年×月×日の雑記より転載)

男の赤ちゃんを産んだ友人にピンクのよだれかけをプレゼントしたら、「あなた、うちの子の性別、間違えたでしょ!」と怒られた。ピンクがいちばんかわいかったから選んだのに……
こうして、人は、赤ちゃんの時から、『男の色』 『女の色』 という色彩教育をされてゆくのですね……

もどる